Tremors

心の中の小さな震え。

彼岸にて。死者との交わり。

お彼岸。。。
ですが、墓参りを一度もしたことがなく
(というより、うちは納骨堂しかないので、墓はないうえに、遠いのでやったことない)

お彼岸てそういう日というのを
今更気づいてますが
霊的なものを感じるおばさんから
「実家に誰もいなくて寂しいと言っているので
 お彼岸と25日にお菓子とご飯をあげてお経をあげて」と
姉が言われた〜とのことである。

さて、人間は死んだら、
肉体から解放されてひゃっほーいとなって
身体のあったときのことなんかすぐに忘れるんじゃないかしら?と思ってたのだけど
そういえばチベット死者の書とかにもあるよに
ある一定の期間は、この世とあの世の境をさまようのかな。

いや、本当にそうなのかはわからない。

そいでも、やっぱし、人間的感覚で言えば、
身体があったときの意識はだいぶ残るのかな?

魂に寂しい、は、あるのか。。
とか、
好物が食べたいとかあるのかな、とか。

でも、信じている宗教観でこういうのもだいぶ違うだろうなと思ったり。。。

わたし的には、肉体から出てしまった魂は、
いろんな魂が入っているプールに
ぼちゃんと入ってしまって
融合して生きてきたときの記憶や経験は共有されちゃうのかなぁとかね、思ったり。
(↑無宗教です)

死んだ人にもう一度会いたいのか
と聞かれると
実はそうでもないのだ。

一度ここから肉体を伴う存在としては消えたものを
また蘇らせるのは、なんだか気持ちが良くない。

ここで終わりって決めた人の覚悟はどーなる?
なんかどっちににもいい影響はない気がする。

で、さ。
肉体がない存在は、どこにだっていけるはず
コンタクトの仕方が違うだけだから
それを寂しいというのかどうか。。。

とか。

まぁ、普段はほとんど親の存在が意識に上らない生活をしていたので
「いる」「いない」というのは、なんかねー
すごく曖昧。。。。

目の前にいる、というのが「いる」ということなのか
でもずっと目の前にいなくても、ずっと存在していて
その存在がふと消えてしまうと、目の前にもいなく根本的な存在もないということになって。。。

「存在」とは何だろう?と

わたしの意識の問題か?

インドにいたわたし、淡路にいるわたし
まるで異次元に入ってしまってたような
それでもわたしはわたしとして存在しているらしく。。

「生きている」という不思議な曖昧な地点に
今、立っているのです。

お彼岸というのは
その境界がよりいっそう曖昧になるときなのかもしれないな。

その曖昧な場所に(たぶん)存在するわたくしは
明日、牡丹餅じゃなくってよもぎ餅を作るのだ。

あの世のために
この世のために。
 
 

 
で、ちょっと調べたら
彼岸の入り3月18日、
終了3月24日と、21日前後1週間はお彼岸と呼ばれるらしい。

俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。

だそうですよ!(wiki

自分の親を辿って、
人類を遡って、
生物発祥のアミノ酸まで遡って
感謝してみたいと思います。

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