Tremors

心の中の小さな震え。

静けさ

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しばらく、言葉を書き連ねることができないのか必要ではなかったのか

とにかく文章を書く、ということをしなかった。

 

感情のまま生まれてくる言葉を、書くのがなんだか過剰すぎるかな、と思った。

 

思いが強すぎるのかもしれない、ってなんだか思ってしまい

自分のことばをあまり連ねなくなった。

 

それと、あんまり感情的に動かしたくなかったんである。

 

1年のうちに身近な死を3つも見てしまったので、

あまりそれに浸りたくなかったのはある。

 

まぁ、そういうので、何か作品を作ったりするんだと思うけれど

なんだか何も浮かんでこないんである。

 

その点にあまり自分のなかで深く入り込みたくない、と思っていることに気づいている。

 

それ以外だったら、映画とかで泣けるけど

身近な死については、感情を動かしたくないような感覚になっている。

 

まぁ、それでいいのかな、とは思うけれど

無理やりどうこうしようともしない。

今は、どうしようもないからだ。

 

感情を大きく動かさないで、何か作れるのかといえば

作れるとは思う。

 

最近、落合陽一さんの撮る写真を見ているけれど

とても感覚が似ている、と思ったら

コメントに「静か」という言葉があって、

ああそれだ、と思う。

 

それは自分の中にある静けさで、音がないとかそういうことではなくて

心のというか感覚の奥底にある「揺るぎない静けさ」。

 

あの感覚がある。

 

久しぶりに、その領域に自分を下ろしていくと

なんとも言えない幸福感で満たされる。

 

過剰な悲しみも過剰な喜びもない、本当に静かな場所。

 

何か、そういうところから

今度は生まれてくるのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、文章のリハビリをしていこうとおもうのでした。

開かれていく、地平が見える。

youtu.be

美しいものを見ると
自分の中に
ふわっと花が咲いていくような
脳内に幸福を感じるホルモンが撒き散らされて
じわじわと、自分の中の何かが解放されていく。

これは、羽生さんの平昌での基礎練習の部分を集めたもの。
その基礎練習がとてつもなく美しい。

平昌オリンピックのあとに、
昔からの演技の動画をたくさん見て
日本でやっているときは、動きに癖があり体力もなく
才能はあるけど勢いでやってた感。。。

それからトロントに行き、
基礎からスケートをやり直したことで、
劇的にスケートの美しさは変わっていったのはわかったけど
毎回、毎回動きが美しくなっていくのは、
どんな訓練をしてきたんだろう?と思っていて

いろいろサーチしてたら
スケーティングコーチのトレイシーさんのインタビューに行き当たる。

スタミナ切れで苦しむことが多いので
スタミナをつけようとしたけれど喘息や体質から難しいので
力を使わない滑りを学ぶことを学ばせた。

その滑らかな滑りには、
上半身と下半身の連動性
エッジとフリーレッグと背中の整合性
呼吸の仕方
を訓練する、というようなことが書いてあって

「美しく見せようとしている」わけではなくて
「機能的に突き詰めていったら、美しくなった」
んだな、っていうことがわかる。

だから、バレエをたくさん取り入れなくても
あんだけ美しいんである。

この動画の中の、曲が盛り上がるあたりの
スピードの上がり方を見ていると
なぜなのか、自分の中でも何かが解放されて開いていく。

これは何かを表そうとしている「演技」ではない。
だから、それを見て心が動かされていくっていうのも
変かもしれない。

でも、その整った身体から紡ぎ出されるものは
言葉も感情も乗らないままで
人を感動させることができる。

逆に言えば、整っていなければ「感動させようがない」。

と、いうことを、この前まで通っていた
表現者のためのボディワーク」で、実感してたので
深く納得した。。

なんか、それは、お茶の世界とか能の世界ともリンクするような気がする。

そしてできたら、そんな美しさを、自分の中に持ちたいな、と思うのです。

「開かれていく、地平が見える。」

背中が伸びる思いです。

開く。

去年から、
右腕が上がらないとか
あばらが痛いとか
膝も調子悪いとか
言って、
さらに動かなくなっていたら
その動かないことがふつーになってしまっていたなぁと
先日少し踊って気づいたのと
 
もともと良い物があるのなら
それはもっと磨いたほうがいいな、と
フィギュアを見て影響されてしまったので(笑
 
ベリーのオンラインの講座の登録して
動画とともに動かし始めた。
 
自己流でもいいんだけど
なんか課題をこなすっていうのも
なんか新鮮だなぁって思う。
 
自分のできない動きがたくさんあるから
同じ回路で出来上がっていた体が自由になる気がするから。
 
そしてオンラインだと間違っても怒られないし
(これバレエのトラウマね。。)
 
うわー全然曲がらない、手が上がらない、伸びない。。。
と苦笑しながらも
1ヶ月、いや一週間でもう体は変わっていくから。。
 
まぁエストロゲンがでなくなっても
筋肉がすべて失われるわけでもない。
 
これまでとまた違った身体を楽しめばいい。
 
春ということで、
身体も開いていくねぇ。

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肉体を使って作り出すアート。

フィギュアの羽生選手の演技を
あれこれと見ていると
自分の身体もそれに動かされるように
動きが生まれてゆく。

身体が生み出す
美しさに
揺さぶられる。

生まれたそのままの
美しさというのもあるけれど

この鍛え抜かれた芸術性、肉体を使って作り出すアートに
突き動かされる。

同じプログラムを
何度も何度も滑り続ける。

それは昔、自分がバレエでやってきていて
もうそれは嫌だなぁと
思っていたけれど

それでも、何度やっても発見があり
練習すれば、それが向上することも知っているし
身体に踊りが入り、それがこなせるようになってから、
その上に載せられる物があるのも知っている。

音が身体の内側から溢れ出てくるように見える。
そうなった時の音と身体、そして場のエネルギーの一体化は
魔術のよう。
 
フィギュアはスポーツなので「勝ち負け」がある。
でも、羽生選手も言っているけれど
他人に勝つのではなく、自分に勝つこと
そして今できることを最大限にやり尽くすこと
それが、順位よりも大事なこと。。

この1週間、山ほど羽生選手の動画とかインタビューとか
見て、ほんとにこの人いろんな意味ですごいなぁと。。

怪我をしても被災しても
どんな経験も肥やしにしかならない。。
と、言い切る23歳。

感じるものの深さ、幅、それが表現を作っていく。。

どこまあでいくんだ。。。

と、
楽しみではあります。

彼がほぼダンスのレッスン受けてないってのは衝撃だったけれど。。。
それも天賦の才能なんだろうな〜

彼の上半身の脱力した動きを感じて動くと
歩いている時ですら、自分の肩に力が入っているのに驚いたりする。。

で、そう思って力を抜こうとすると、腕が重く感じられたりして、
自分の身体があちこち微妙なバランスで、身体を支えていることに気づくのだ。

素晴らしい演技は、こちらのインスピレーションまで生み出していく。。

ありがたし。。。

てなことで、毎度長いなこの文章(笑。

最後にこちらをどうぞ。

youtu.be


オリンピックの時のエキシビジョン。

これもいくつか見たけど、やはり最新が最高でした。

もう、4回転以上のジャンプはいらないし、

困難を乗り切って栄光を掴むという

ギリギリのところに追い込むことをわざわざしなくてもいいと思う。

 

いかに素晴らしいパフォーマンスを毎回続けていけるか。。。

そっちにモチベーションを持ってきてくれたら

身体にも負担かからず、長く滑っていられる気はするなぁ。。

 

でもその境地に達するのは、まだ若すぎるかな。。。

 

いつか実際に、彼の滑っている姿をみたい。

やはり肉体をその場に溢れる彼のオーラを感じてみたい。

 

ま、世界中の人が思っているだろうね(笑

 

とりあえずは、怪我を治して。。ですけれどね。

 

Hope 希望

朝起きたら
ものすごーい怒りが湧きあがったので
湧き上がるまま
罵詈雑言を叫んでみた。

「自分をごみ捨て場にしないさせない」

と決めたら、すっきり収まった。

あけっぱなしの入り口をぎゅーーーーーーって絞って閉じてしまいまった感じ。

狭い了見がもっと狭くなるけれど

自分を守ろう、大事にしよう。

まぁ、もともと、興味のないことは目に入らないタイプなんだけど、興味なくてもそっちに向いてみよう役に立つかもとがんばったりしてみたんだけど。。

「もう全部あるじゃないか、ここに。」

って

なんか、もうそこまで引き受ける余裕がなくなって気づいた。
 
 
 
先日「先祖供養」のことを考えたときに
毎日水とご飯とお経をあげるよりも
「自分を最大限に生かす」ことがそれにあたるのと感じた。

自分をただ掘り下げる。

それだけでいいんだなぁ。

適当なお菓子をあげるくらいなら
手作りのよもぎ餅とかをたまにあげたほうがいい。

 
自分に連なるいのちを
最大限に使って終わろう。

どうせ、ここであるDNAのつながりは終わりを迎える。

でも、それも「無駄」にはならない。

そのある場所で失われていく遺伝子もまた計算されたものだろう。

わたしはその命をつないできた遺伝子のしたたかな計画を信じている。

交わって新しい遺伝子を作る以外の何かが
そこにはある。

と、ここまで書いて
久しぶりに
コラージュを作りたくなって
赴くママ
作ったところ
文字、まで配置された。

手描きでないところに
満身のコンプレックスがあったのではあるが(笑
もうそんなんもどうでもよくて。

自分から押し出されてきた
「希望」を
お祝いしよう。
 
 
 
「おめでとう」
「ありがとう」

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彼岸にて。死者との交わり。

お彼岸。。。
ですが、墓参りを一度もしたことがなく
(というより、うちは納骨堂しかないので、墓はないうえに、遠いのでやったことない)

お彼岸てそういう日というのを
今更気づいてますが
霊的なものを感じるおばさんから
「実家に誰もいなくて寂しいと言っているので
 お彼岸と25日にお菓子とご飯をあげてお経をあげて」と
姉が言われた〜とのことである。

さて、人間は死んだら、
肉体から解放されてひゃっほーいとなって
身体のあったときのことなんかすぐに忘れるんじゃないかしら?と思ってたのだけど
そういえばチベット死者の書とかにもあるよに
ある一定の期間は、この世とあの世の境をさまようのかな。

いや、本当にそうなのかはわからない。

そいでも、やっぱし、人間的感覚で言えば、
身体があったときの意識はだいぶ残るのかな?

魂に寂しい、は、あるのか。。
とか、
好物が食べたいとかあるのかな、とか。

でも、信じている宗教観でこういうのもだいぶ違うだろうなと思ったり。。。

わたし的には、肉体から出てしまった魂は、
いろんな魂が入っているプールに
ぼちゃんと入ってしまって
融合して生きてきたときの記憶や経験は共有されちゃうのかなぁとかね、思ったり。
(↑無宗教です)

死んだ人にもう一度会いたいのか
と聞かれると
実はそうでもないのだ。

一度ここから肉体を伴う存在としては消えたものを
また蘇らせるのは、なんだか気持ちが良くない。

ここで終わりって決めた人の覚悟はどーなる?
なんかどっちににもいい影響はない気がする。

で、さ。
肉体がない存在は、どこにだっていけるはず
コンタクトの仕方が違うだけだから
それを寂しいというのかどうか。。。

とか。

まぁ、普段はほとんど親の存在が意識に上らない生活をしていたので
「いる」「いない」というのは、なんかねー
すごく曖昧。。。。

目の前にいる、というのが「いる」ということなのか
でもずっと目の前にいなくても、ずっと存在していて
その存在がふと消えてしまうと、目の前にもいなく根本的な存在もないということになって。。。

「存在」とは何だろう?と

わたしの意識の問題か?

インドにいたわたし、淡路にいるわたし
まるで異次元に入ってしまってたような
それでもわたしはわたしとして存在しているらしく。。

「生きている」という不思議な曖昧な地点に
今、立っているのです。

お彼岸というのは
その境界がよりいっそう曖昧になるときなのかもしれないな。

その曖昧な場所に(たぶん)存在するわたくしは
明日、牡丹餅じゃなくってよもぎ餅を作るのだ。

あの世のために
この世のために。
 
 

 
で、ちょっと調べたら
彼岸の入り3月18日、
終了3月24日と、21日前後1週間はお彼岸と呼ばれるらしい。

俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。

だそうですよ!(wiki

自分の親を辿って、
人類を遡って、
生物発祥のアミノ酸まで遡って
感謝してみたいと思います。

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両目で視る。

自分の目で見えているものは
自分にとって真実という前提で
生きてきたいるわけだけど
その中には主観というものがあって
視野の中の1/100くらいしか認識してないらしい。

でもって、その見え方も、視力の悪い人にとっては
もっと狭いことになっていて
なんていうかほとんど想像で、
ものとの距離とか存在を認識しているので、
ほぼ妄想の世界で生きているのかもしれない。
 
 
この前、青山のめがね屋さん「ドイツマイスター眼鏡院」
視力の検査をしてもらったのだが
うすうすは気づいていたけれど
近くを見るときは左目
遠くを見るときは右目
という使い分けをしていて
普通なら左右で見た像を脳内で合成して
距離を図るというシステムが機能していない
っていうのがわかったのです。

だから、球技が不得意。
(距離がわからんので場所を移動して球が取れない。なので、キャッチャーゴールキーパーとか小さな範囲に球がやってくる場所の役割を選んでた)
集団行動も不得意。(距離測れないから)
よくつまづいたり転んだり、は子どもの頃多かったけど、太っているせいなのだと言われていた。

んじゃぁどうやって、距離を理解するのかといったら
長年の訓練なんだそうで。
まぁ、体の不具合は訓練によるカンを養うことで
だいたいのことはどうにかなる。。。わけだけど

何せ片方の眼で、いろいろやろうとするので
視神系は常に緊張しているから
ものすごく首肩が凝る。
それは小学生の頃から。

片方ずつ矯正すると1.0が出るのに
両眼だと0.7くらいしか見えないという謎の視力の出方をするので
視力の出にくい左目の機能を発達させるために
小学生のころ
右目に眼帯させられたりとか。。
乱視だとか言われて、超ハードコンタクト入れられたり。。

とかいう、諸々の不都合。。。
しかし、それがきつすぎて早々に離脱して
普通のめがねを愛用。。。
というか、選択肢が普通の眼鏡以上にあるとは思わず早何十年。。。

で!
今回インドで眼鏡をなくした!と思ったところから
もしかしたらもっと楽に見える眼鏡が作れるかも
という希望を持って、
「ドイツマイスター眼鏡院」さんなる眼鏡屋さんへ
いってみたのです。

元ネタは小笠原和葉さんのブログ。。
https://ameblo.jp/kazuhaogasawara/entry-12328715445.html
ボディワークの専門家が良いというものに興味津々。。

そんで、こちらで検眼してもらった結果
人生初めて、両眼で1つのものを認識する
という見方ができるめがねが出来上がりました。

眼は脳直結の機能なので
今まで、眼の機能も左右独立してたから
その情報も左脳右脳と独立して認識していたらしいのだけど
ここにきて、見るということに関して
左右の脳が一緒に活動するという
なんか面白いことが起こりそうなのである。

今まで、見えてきたというか見ていたと思われるものって
眼に入ってきた情報を脳が新しく再構成して見せているものなので、
そこが変わると、2Dが3Dになったような感じになるんかなー

などと、期待してたりして。

でも、まー全然変わらないかもしれない。

それはかけていかないとわからない。

もうちょっと早く来てほしかったですね。。。
とめがね屋さん。
そう、老眼が入る前に来たかったな。

で、まだめがねは届いておりませぬ。
なので、ほんとに楽になるのかどうかはこれから。

かけてみてから、こういうのは書いた方が良いのかもしれないけど
とりあえず、そういうめがね屋さんもあるよってなことで。

安売りのめがねからしたらだいぶ高いですが
そしてお店のおにいいさんがけっこうぐいぐい系なので
ちょっとひいいたりしましたが(笑
技術は確か。
 
最近いろんな点で、
(自分の)身体はこうだよね、って信じきっていたものを
外されている今日この頃。

私の「普通」は私だけの「普通」であって
それに合わせて身体はバランスを取ろうといろんな場所にちょっとずつ負荷をかけて整合性を保とうとがんばっている。
でも、それも続けすぎると不具合が出てくる。
無理が効かなくなってくる。

まぁ、そんなお年頃なんですけどね。

もう一人(片眼)で頑張らなくてもいいんだよ、
両目で楽していこうじゃないか!

と、人生全般にもなりますように(笑

今日あたり、眼鏡が届くはず。
またそのつけ心地もレポートいたしましょう